どうもこんばんは。ご自由にどうぞ。
努力教という言葉をご存じでしょうか?オレがこの言葉を知ったのは、黒子のバスケ脅迫事件の犯人の渡邊博史氏の著書である、生ける屍の結末を読んでからです。
現在は刑期を終えて出所していますので、渡邊氏とさせて頂きます。
この本には黒子のバスケ脅迫事件に至るまでの経緯や犯行の内容、逮捕されてからの心境や向き合った生い立ちなどが鮮明に書かれており、非常に読み応えがある内容になっております。
その中で一番脳裏に焼き付いた言葉が努力教という言葉でした。渡邊氏の解釈によると、努力教とは何事も努力の総量によって救われると信じることのようです。これに関してはオレも同意します。
そして日本には努力教の信者が蔓延しており、彼らは努力すれば報われる可能性があるという価値観を絶対視しているのに対して、努力教徒になれなかった者は不可抗力によって努力ができなかった者、或いは努力するという発想すらなかったと説明しております。
この中でも努力をする発想が無かった者というのが一番厄介で、幼少期にいじめや虐待を受けて心の安心を失った状態に陥ると再起不能の沼にハマってしまうと危惧しております。簡単に言うと、幼少期の教育が大切で、いかに自己肯定感を育めるかが鍵ということになります。
ここまで書くと渡邊氏の信者ではないか?とか、渡邊博史氏を擁護しているなどと批判がくるでしょうが、決して彼の犯罪自体を認めたわけではありませんし、刑罰を受けて当然であったと認識しております。そこのところは誤解のなきようお願いします。
この本は渡邊氏のような不幸な境遇に遭う人を一人でも減らし、そしてそうならないようにしたいというメッセージが込められた本であると思うのです。
それを理解している人達も沢山いると思いますが、残念ながらどうしてもそう思わない人達も多くいるのも現実であります。
「長ったらしく書いているが所詮は言い訳」
「コイツと同じかそれ以上の不幸な境遇でも努力している人間は沢山いる」
などという努力教信者達の意見が根強くあり、生き辛い世の中は不変であるということをひしひしと痛感しました。
彼らは地頭が悪いのではなく、感情の問題なのかなと思います。自分より楽をしている人間がどうしても許せない、自分はどんな苦境でも歯を食いしばって頑張ってきたから頑張るのは当たり前といった感じで。
あとは渡邊氏のような意見を受け入れると自分の頑張りが否定された感じになってしまうので必死に抵抗しているというのもあるのかもしれません。
そういった感情は誰にでもあると思いますし、オレなんかはブログ上での文章でもわかると思いますが、かなり怒りが滲み出てしまってます。
こういう努力教信者たちにはお前たちは何だかんだ言って恵まれていただけだ!とか、おめでたい頭だ!とか言ってやりたい気持ちもあるのですが、彼らは絶対に納得しないでしょう。というよりも、丁寧に説明したとしても説得できるとは思えません。
せいぜいおめでたい頭のままでいて下さいと軽蔑してやるくらいしかできません。
ですので残念ながら彼らが世の中の大多数である限りはオレみたいな考え方の人間は負け続けるのが確実なのです。
もしも勝ち組に入りたいのであれば努力教に入信するのが賢い選択でしょう。何だかんだ言って仲間もできますし、モテる可能性も大です。
それでも渡邊氏のような言い訳に聞こえる考え方をどうしても捨てきることはできないのです。何故ならば彼の言うことも拭いきれない事実であると同時に正論であり、物事を正確に分析して、どん底の人間を救う可能性がありますから。